名前

私たちすべてに名前はついている。
それは親から受け継いだ姓と個別に付けられる名から成る。
たいていの場合、私たちはその意味の異なる2種類の言葉、文字、記号を以って、自身の個別コードとする。
名前とは何なのだろう。さっき言ったようにただの個別コードなのか、はたまた、別の意味があるのだろうか。私にはわからない。
一つ言える事は、私は自分の名前を何かの一覧で見つけたとしても、それをコード意外のものとして確認してはいない気がする。
何年も見てきたはずの自分の名前が本当に私の名前なのかわからない。漢字で表示された名前は確かに私を表してはいるけれど、実際に表しているのは私ではなく、私の名前なのだ。
名前には文字と音がある。文字では宗原 零と書き、音ではムネハラ レイと発音する。
発音は一つしかない。けれど、文字は複数存在する。さて、名前はどう定義すればいいのだろう。
リンゴが林檎でありアップルでありAppleであるように。
人がヒトでありHumanでありManでありPersonであるように。
日本という名前も文字もちゃんと持っていながら、JAPANというように。
한국という名前も文字も持ちながら、大韓民国と呼ばれ、South Koreaと呼ばれるように。
固有名詞でありながら、音が違う。文字も違う。それのどこが名前なのだ。それはただのあだ名でしかないではないか。アメリカ人が日本をジャパンと呼ぶのはアメリカがそう名付けたからだ。別に実際名付けられたわけじゃない。アメリカが勝手にあだ名でそう呼んだだけなのだ。マルコ・ポーロが黄金の国ジャポンと言おうが、ペリーが開国を迫ってこようが、契約書にジャパンと書けば、それは私たちの知る日本ではないのだ。
ジャンヌ・ダルクが宣誓文に丸と、その上に十字を描いたサインのように、私はそれに従わない、といったような意味があったとしてもおかしくはないのだ。
日本が日本であるように、アメリカがアメリカではなくU.S.Aであるように、イギリスがU.Kであるように、それぞれの世界で、それぞれの名前がある。
私はどこへ行ってもムネハラであり、レイである。文字なんて所詮はただの当て字に過ぎないのだ。