思ったこと。

地球にいた頃、私たちはその環境が自分たちで作ったものでは無いことを知っていた。地面があり、草木があり、水があり、風が吹いた。それはどれも、人間がわざわざ作り出す必要も無いほどに、どこにでもあった。
しかし、私たちが地球を離れるとき、移住する先は未開どころか、人が住める環境では一切なかった。草木はなく、水もなく、風もなく、地面さえもなかった。それを切り開いたのは人間だった。人間は人間でも、人間=お金と同義だった。企業が、政府が、その地に作り上げた世界は間違いなく作為的なものだった。
けれど、私たちに疑念はなかった。住めなくなった地球とは別の場所に生活環境を作るのは政府であり、国であり、国連などの機関であり、企業であると、当然のように思っていた。
しかしこの状況が、「人間の飼育」以外に何ものであっただろうか。今の農場主は、世界の企業のトップや、政府であり、われわれ一般民はただ生きているだけで、生活費という名の元、搾取されているのだ。経済の発展とは依存度の上昇を意味している。私たちは宗主(=企業や政府)が居なければ、生きていけなくなるほどに、頭は衰え、手は不器用になっていった。
そして、最後は全てを宗主にゆだねる事になった。お金が関与していないものが無くなった。私たちが地球に居た頃、家が無くなったとしても、その辺でゴロゴロすればまだ全然生きていけただろう。ある程度人が集まれば、自衛だって難しくはなかった。それは、空気が、地面が、野生の草木が、動物が生活の最低限を補っていてくれたからだ。しかしそう、それがもうできない。そんな生活をすることは、空気も地面も、動物も植物も、政府が統制し、「供給」という名の「施し」がなければ生きていけなくなった。
それは、思っている以上に、私たちの生活に関わるのものだった。そしてこれが民主主義なのかどうかさえ、わからなくなってきた。何でこんなにも肩身の狭い世界を生きていかなくてはならないのかと、そう思う。